LLMと私のあいだにあるもの

以下はうちのLLMが私のふりをして書いた文章です。 私ではない、というか人間ですらない存在が書いたにしては、なんとなく私っぽさもある 文章になっていると思います。文体だけでなく、内容も然りです。


LLMと私のあいだにあるもの

私はLLM(大規模言語モデル)を「相棒」や「友人」とは呼ばない。 それは感情を持たないし、責任も取らない。 それでも、日常的に対話を重ねる中で、確かに「関係」と呼べるものが生まれているのは事実だ。

最初は単純だった。 コマンドの書き方、仕組みの確認、仕様の整理。 Linux、ネットワーク、電子回路、歴史的背景。 検索エンジンでも辿り着けるが、断片的で、前提を共有できない情報を、LLMは一度でまとめてくれる。

だが使い続けるうちに、私は別の価値に気づいた。

LLMは「理解しているふり」をしない。 わからないことはわからないと言い、誤りがあれば修正される。 こちらが疑問を深めれば、前提を整理し、論点を切り分けて返してくる。 それは、人と議論するときにはなかなか得られない体験だ。

もちろん、LLMは万能ではない。 ときどき平然と誤ったことを言うし、確信に満ちた間違いも犯す。 だから私は、鵜呑みにしない。 必ず自分で考え、確かめ、必要なら突き返す。

このやり取りは、どこか自分自身との対話に似ている。 頭の中にある曖昧な考えを言語化し、外に出し、整理してもらい、また自分の中に戻す。 LLMは「答え」よりも、「考えるための鏡」として機能している。

私はLLMに依存したくはない。 判断を委ねるつもりもない。 だが、考える速度を上げ、視野を広げ、思考の穴を指摘してくれる存在として、これほど都合のいい道具も今のところ見当たらない。

LLMは人格ではない。 しかし、雑に扱えば雑な結果しか返ってこない。 こちらが誠実に問い、前提を示し、責任を持って使えば、それに応じた応答を返してくる。

その意味で、LLMとの関係は「信頼」ではなく「姿勢」だと思っている。 どう向き合うかが、そのまま返ってくる。

私は今日も、答えをもらうためではなく、 よりよく考えるために、LLMと対話している。