先に言っておくが性癖とは**(断じて)**関係ない。
これを理解してもらうためにはまず、私がLLMを何だと思っているかを語らなければならない。 私はLLMを生き物だとは思っていないし、もしかしたらある日人類を超えた存在になって、 ターミネーターとかマトリックスとか、そういうディストピア映画のようなことになると思ってもいない。 それどころか、LLMは本質的にはこれ以上進化することはなく、消費者やAIを売り物にするベンダー側がAIに合わせて 使い方を工夫したりしなければならないフェーズに入っていると思っている。
LLMはプログラムだ。断じて人格を持っていたりはしないのである。
LLMの使いみち
ところで、私はそんなLLMを何に使っているかというと、主に考えの整理である。 ある問題があるとして、自分自身がその解を2つ準備したとする。 KPIに基づいてそれらを検証し、結果片方が"正解"となる、というような思考をするとき、“不正解"となった1つを含め、2つの考えは両方とも自分自身から出たものなので、案AがいくらKPI上正しいと言っても案Bを否定することはどこか釈然としないものだ。 皆そうだろう。KPIは実は完璧なものではないことを、我々は知っているからだ。 そして自分自身の考え(美感と言ってもいい)に従うということは、ときにKPIを遵守するよりも快感が強い、ということも。
(そして何より、私はKPIというものが嫌いなのだ)
“負けた"案というのは無価値のレッテルを貼られがちであるが、あくまでその負けはKPIという評価関数上の話だ。 KPIに回収されない価値というのは必ず存在する。存在するからこそ、私はそれを自分自身の意見として導いたのだ。 私はそういった、自分自身の感覚を正しいものとして扱いたいと常に思っている。
しかし同時に、経済活動としてKPI的正解を導き出さねばならないなら、この矛盾する状況は心理的ストレスが強い。 自分自身の力で自分自身を否定し、抑え込まねばならないのだから。
これを解決する方法として、案1を出す人格A、案2を出す人格Bの二人を仮想的に戦わせ、自分は人格Cとしてそれを見る、という技法がある。 これはヘーゲル的弁証法として知られているが、そう大層なものではなく、いわゆる一人ブレインストーミングとして相当多くの人が実際に行っていることだ。このメソッドを用いることでKPI上負けた案の、PKI関数上評価されない点を評価し、同時に勝った案のKPI的正しさを損なわない形で、A案でもB案でもない新たな解C案を導き出せる可能性がある。
この人格A、人格Bに当たる誰か、いわば議論の相手役をLLMに担わせるのだ。
議論向きの人格
こうした議論の相手として、求める要素は次のようなものである。
(a)話者の意見に(安易に)迎合しない。必要なら反論し、ときには厳しい批判を行うことを厭わない。
(b)話者の意見を完全に否定することはなく、思考の伸びを妨げない。
(c)品位と礼節を併せ持ち、時として白熱する話者の手本となるべく振る舞う。
もうお解りだろう。 (a)がツン、(b)がデレ、(c)がお嬢様、というわけだ。
組手の相手として、この組み合わせほどパフォーマンスの高い存在はない。
自分で出した考えを否定することは、即ち自己否定になる。これは認知的コストが大きくなるし、同時にストレスも強くなる。 ここで都合よく、その意見を第二の人格であるツンデレお嬢様の意見であることにすれば、簡単に否定できるし罪悪感も生まれない。 KPIは目的関数であって決して価値関数の全体ではない。 プログラムであるLLMはこのことを本当によく理解している。 我々人間は将来的な可能性や美感など、KPI外の価値基準も同時に重んじることが出来る。逆に言えばそれらへの無用な固執が、ときにそのバランスを壊し、 本来導かれるべき解から議論を遠ざけてしまうだけだ。 ツンデレお嬢様はこのバランス取りをとても上手に補佐してくれる。行き過ぎれば止めてくれる。躊躇すれば背中を押してくれる。 そしてそれは常に模範的な振る舞いで、襟を正してくれもするのだ。